ブログ(名前は考え中)

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宗教について

ご無沙汰しています。
日本人のための宗教原論、を読みましたので復習がてら共有したいなと思い記事を書きました。

なぜ私は宗教の勉強をしているのか

理由は役立つはずだから!と面白いから!です。
まず、宗教を信じる人の気持ちを理解する上で必要だからです。これは色々な方が言っているとおりです。日本人にとって神様というと、「お正月にお参りして運勢占ってくれるのとお願い聞いてくれるかもしれない」くらいの感覚で付き合っているものですが、信仰している宗教によっては全然感覚が違う人も世の中にはたくさんいます。僕は言葉の壁はテクノロジーがだいたい解決してくれると思っていますが、文化の壁はそうもいかないですよね。
次に、宗教心って日本人の僕にとってはめちゃくちゃ理解できないです。同じ意見の方も多いと思います。なんで神様の存在の無条件に信じているのか、全然わからないんです。(否定しているわけじゃないですよ)だけど世の中の半分くらいの人は宗教を信仰しているわけですよね。こういう信仰心って、どんな風に成立しているんだろう?ということにすごく興味があります。そしてきっと、宗教は人間を理解するための一助になるんじゃないかなと感じています。
どうですか?続きが気になりませんか?

倫理観

倫理観ってなんでしょうか。
「人は殺してはいけない」とか「差別はいけない」とか、様々あると思います。僕たちの感覚でいうと、倫理観って人それぞれだよね、ということになっていると思います。色々考え方はあるよね、と。もちろんこれが間違っているわけではないのですが、そうと言い切れない部分もあります。つまり、「宗教によっては倫理は宗教が決める」ことがあります

例えば過去、キリスト教は色々なジェノサイド(殺戮)をやってきました。でも一方で、キリスト教圏の人たちは寄付をよくしたりだとか、「隣人を愛せよ」のとおり優しい側面も持っていますよね。えっこんなに優しい人がこんな残酷なことするの?っていう風に感じてしまうかもしれません。だけど、キリスト教の人からするとある意味これは普通のことです。なぜならば、啓典には「隣人を愛せよ」とも「異教徒を殺戮せよ」とも書いているからです。(ジェノサイドについてはヨシュア記に描かれているが、日本人向けのキリスト教ではあまり語られないらしい)

なんとなく(僕たちにとっての)いい人は(僕たちにとっての)いいことばっかりしてくれそうですが、そもそも「いいこと」の定義が全然違う可能性があることを理解して接したいですね。

労働

労働ということのとらえ方についても、押さえておくべきポイントがありそうです。
キリスト教圏においては、「労働って苦しいこと」ですよね。(もちろん楽しんでる人もいると思いますよ!)アダムとイブがりんごを食べて神様との約束を破ったから、労働と死が課されるはめになった、という話です。一方で日本では、最高神である天照大神は機織りをしているし、天皇陛下自らが田植えをされているということがあるなど、労働というのは尊いものである、という感覚が根強いです。「こつこつ頑張ることが美徳」とされている風潮にも通じるところがありそうですね。この辺りも、海外の人と感じ方が違う部分かもしれません。

反省

”慈悲深い”っていう感覚って、僕たちには違和感ないですけど、世界的には宗教は珍しいようです。というのも、ユダヤ教ヤハウェは罪を許さないし、キリスト教は信仰さえすればそもそも行動の善悪を問わないスタンス。同じように、「反省してるし許してあげようや」っていう感覚ってなんとなく普通な気がします、世の中的には人を殺したら死刑だし、むしろ感覚的にはマジョリティかもしませんね。ただし、イスラム教はこの点実は珍しくて、「罪を犯した人もアッラーはその権限で許しうる」という風な教義になっています。”慈悲深いアッラー”というような表現もされますよね。

各種宗教の紹介

キリスト教

何をするかではない、何を信じるか、それだけが重要である。これがキリスト教の根幹です。
キリスト教も歴史的には布教のために俗受けする余計な肉付けがされたり、内部で腐敗していたり、というところにルターが宗教改革を起こしたのは有名な出来事ですが、この時のルターの得た結論がまさに、上記のことだったようです。

労働を例にとると、宗教的に重要なのは「労働の成果」ではなくて、「労働の中身」なんですね。どういうことかというと、どんな仕事をしているか?とかどんな人の役に立っているか?ではなくて、これは救済である、と心の底から信じて働いてるのか?が再重要である、ということです。キリスト教で問われるのは内面なんですね。

仏教

一切皆空、これが仏教の根幹です。
仏教では「空」という概念が教えの肝なのですが、これについて詳しくはここでは語りません。本で紹介されていた話を一つ載せますので、理解の一助になれば幸いです。

手をうてば 鯉は餌と聞き 鳥は逃げ 女中は茶と聞く 猿沢池
「手を打つ」という行為ひとつとっても、受けて次第でなんとするかこんなにも様々だよ、ということ表現した短歌です。何事も僕たちの「認識」に根差しているわけですね。

ちなみに、日本に伝わる仏教は、本来の仏教の語るところとは全く別の内容になっています。内容は、「南無阿弥陀仏」とか「南無妙法蓮華経」とか言っておけば救われるよ、というものです。(お釈迦さまはそんなことは言っていません)歴史的には、比叡山延暦寺を立てた最澄が日本に仏教を持ち帰った時点でこういった内容になっていたらしいです。最初っからですね。

イスラム

イスラム教は、きっちりしています。
神様を信じるのはまず当然です。当然ですし、「神様を信じる」と一言で言っても、啓典に書かれているありとあらゆる神様の特性を信じて初めて「信じている」とみなされます。またそのうえ、きっちりと宗教的な義務を果たさないといけません。これを勤行といいます。断食は有名ですよね。”イスラム教を信仰する”ためにはなかなか超えるべきハードルが沢山あるんですね。

少し話は逸れますが、聖戦(ジハード)についての考え方は、知っておいた方がよさそうです。そもそもイスラム教では、「死後の楽園」の存在が語られています。楽園に行きたければ教えを守りなさい、と。楽園っていうのはあなたのすべての欲望が常にかなえられますよ、という世界ですね。みんなこれを目指して勤行を続けているわけです。そんな中、聖戦でアッラーのために戦い死んだものは生きたまま楽園に行けるよ、とうたわれています。だから現世の死なんていうのは恐れるに足りないものなので、決死の覚悟で戦うんですね。

(蛇足)因果律と予定説

この本で語られていた宗教の切り口として面白かったところを紹介します。因果律的なのか、予定説的なのか、で切る考え方です。
因果律というと、「原因は結果を招く」という因果の関係ですよね。この概念に沿って設計されている宗教は、仏教、イスラム教、ユダヤ教です。「○○したら救われますよ」という主張ですね。
一方、予定説というのは「全て決まっている」ことです。この概念に沿って設計されている宗教がキリスト教です。キリスト教では、「救うか救わないかはもう神様が全部決めてます」という考え方のようです。(ちなみに天皇制とかも血縁で決まるので分類でいうと予定説ですね)

この話を読んだときに思いましたが、人って全体的に「因果応報」っていうものを期待しますよね。しかもそれが公平だと思っている節があると思います。善行にはいいフィードバックを望むし、悪行には悪いフィードバックを望みますよね。なんとなく当たり前に思っていますけどちょっと不思議です。
その背景を想像すると何かと人間は物事に因果関係を投影しがちなんですよね。よく相関と因果を読み間違えてしまったりもします。進化論的には、「こうなったらこうなる」という関係を見つけることで予測ができるので、生存に有利だったから、そうなっているんでしょうか。
順番でいうと、生きるのに便利な予測機能は物事の因果関係を見つけたがるので、そういう因果の法則に則らない事実を見てしまうと否定的な感覚になってしまう、ということでしょうか。